「古寺巡礼」以前の四国霊場 2007.01.05 
─庄屋弥右衛門が歩いた江戸中期の八十八カ所 |
| 斎藤
吉久(さいとう・よしひさ)
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〈プロフィール〉
昭和31年、福島県生まれ。弘前大学、学習院大学を卒業後、雑誌編集者などを経て、現在、宗教ジャーナリスト。雑誌「正論」平成18年12月号に「知られざる『A級戦犯』合祀への道」、同19年2月号に「教育基本法『改正』反対に揺れるカトリック教会」を執筆。宗教専門紙「神社新報」に「斎藤吉久の見聞録」を連載中。過去の新聞・雑誌発表記事などは「斎藤吉久Webサイト」で公開している。「斎藤吉久のブログ」をmelma!より配信中。 |
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1、四国遍路の原型──意外に新しい八十八札所の確立
(1)神社名で呼ばれていた札所がある
死出装束の白衣(はくえ)を身にまとい、菅笠をかぶり、金剛杖を手に、徳島24、高知16、愛媛26、香川22、計88カ所の札所をめぐる四国遍路──。そのブームは中高年層を中心に今日なお衰えを知りません。たとえば、巡拝の締めくくりである結願寺(けちがんじ)、八十八番札所の大窪寺(香川県さぬき市、真言宗)には年間じつに30万人が訪れるといわれます。このお寺だけでも毎日千人近くの巡礼者が参詣するということになります。
霊場は80カ所までが弘法大師空海(774〜835)を開祖とあおぐ真言宗の寺で、四国遍路は昔も今も「空海ゆかりの古刹」を巡拝する仏教的聖地の巡礼と一般には考えられています。ところが、歴史的に見ると、どうやらそうではないようです。なかには、空海以前、さらには仏教伝来以前の歴史を伝え、つい最近まで寺院名ではなく、神社名で呼ばれていた札所さえあるからです。
たとえば『読史備要(とくしびよう)』(東京帝国大学史料編纂所編、昭和8年)という戦前の便利本には、「名数一覧」の「八十八」に「八十八箇所大師(四国)」が取り上げられ、各霊場が列記されているのですが、そのなかには「仁井田五社」「稲荷宮」「三島宮」「八幡宮」「一ノ宮」など、神社とおぼしき名前が含まれています。
その「緒言」に記されているように、『日本書紀』をはじめとする六国史(りっこくし)に次ぐ近代の国史編纂事業、『大日本史料』『大日本古文書』編纂の副産物として出版されたのがこの『読史備要』ですから、八十八カ所の一覧としてはもっとも正統で、権威あるもののはずですが、これに神社名が載っているということは、戦前は四国遍路が必ずしも「古寺巡礼」ではなかったということになります。
(2)高野山のお墨付きで確立されたのは18世紀
そうであれば、「空海ゆかりの古刹めぐり」と思い込んでいる四国霊場に関する一般常識をひとまずおいて、四国八十八カ所の霊場めぐりとは何だったのか、歴史的に検証し直す必要がありそうです。たとえば、仏教伝来以前の札所(聖地)はどのような信仰に基づいて、発生したのか。空海ゆかりの八十八カ所の古寺巡礼という信仰形式が成立し、確立されるのには、真言宗の影響が容易に想像されますが、それはいつごろ、どのようにして確立されたのか。
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「四国_礼絵図」部分。
『四国遍路の古地図』岩村武勇編、昭和46年から転載
(画像をクリックすると拡大図がご覧になれます) |
後者の四国八十八札所の確立に関しては、すでに研究があります。山形大学の松尾剛次(まつお・けんじ)教授は、八十八札所が現在の八十八カ所に固定したのはいつか、という根本問題は謎に包まれている、と指摘したうえで、これまであまり注目されてこなかった江戸期の四国遍路図を資料としてとりあげ、最古の四国遍路図とされ、高野山の前寺務弘範の密教的意味づけを特徴とする細田周英の「四国_礼絵図」(宝暦13年=1762)の出現が「四国霊場八十八カ所」の確立であると理解し、八十八札所は高野山の権威を利用して、つまりそのお墨付きを得て、18世紀に定まった、と結論づけています(松尾剛次「四国遍路八十八札所の成立──四国遍路絵図を手がかりとして」=「宗教研究」日本宗教学会、2002年9月)。
八十八カ所の確立は案外、新しく、現在の形式の八十八霊場巡拝の歴史はたかだか250年ぐらいしかない、ということになりますが、それなら、松尾教授の研究をもう一歩進めて、高野山によって「古寺巡礼」が確立される以前の四国遍路とはどのようなものだったのか。あるいは、四国遍路そのものはいかにして発生したのか。札所を札所たらしめている信仰の核心とはいかなるものなのか、その手がかりはないものでしょうか。
じつは、そういう四国遍路の原型をうかがわせる史料があるのです。
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2、弥右衛門納経帳──発見された廻国巡礼の克明な記録
(1)発見の経緯
広島県府中市上下(じょうげ)町(平成16年春に編入合併する前は甲奴(こうぬ)郡上下町)にある八幡神社の田中重雄宮司に、地域の旧家に伝わる江戸中期の納経帳2冊の写しを見せていただいたのは数年前のことです。松尾教授がいう「八十八札所確立」以前の克明な巡礼の記録で、几帳面な宮司の性格そのままに漢字の書体や大きさ、位置まで細かく写し取ってありました。
上下町は広島県東北部に位置し、山林が8割を超える山あいの町です。田中宮司は大正12年(1923)生まれで、この町の町誌編纂委員長などを歴任し、上下町が府中市に編入合併されまで文化財保護委員会委員長を務めました。長く文化財保護に尽くされた功績が認められ丹下弥右衛門納経帳の写し成16年)などを受けた町の名士です。
町の南部に水永(みずなが)という地区があります。氏神様の大歳神社の宮司を田中氏が兼務するようになったのは昭和34年ですが、田中宮司はそれ以前から同地域の宅神祭(たくじんさい)を奉仕してきました。納経帳の存在を知ったのはそのころだといいます。
田中宮司によれば、納経帳2冊が保管される丹下家(現当主は隆三氏)は江戸期に甲奴郡水永村ならびに近隣の村々の庄屋を世襲していた旧家です。屋号は田淵、幕末には名字帯刀を許されていたようです。近世の村方文書を多数所蔵し、とくに祭祀関係の文書にはほかでは見られない特色がある、と田中宮司は解説します。丹下家の宅神祭は6畳の仏間で行われます。筆者が見せていただいた納経帳の原本は仏壇の中に、手の届くところに置かれていました。
その後、昭和54年ごろ、田中宮司は町の教育委員会が行った町内の石造物調査に関わります。調査の結果、15基の廻国供養塔が町内にあることが判明しました。全国66カ所の著名な社寺をひたすら歩いて巡礼し、お経を納めるのが廻国で、無事、達成した記念に建てられるのが廻国塔です。しかし生きて帰れるとは限りません。無念にも志半ばで亡くなる場合もあり、そうした巡礼者を供養するのが廻国供養塔です。
町内の廻国塔のうち1基が丹下家の墓地にありました。「奉納大乗妙典六十六部供養塔」(享保2年=1715)と大きく刻まれています。この廻国塔を眺めながら、田中宮司は、丹下家に残された納経帳との関連が思い起こされた、といいます。書写を思い立ったのはそれからでした。(註記:府中市のホームページに市内の廻国塔についての解説があります)
(2)足かけ6年の巡礼
弥右衛門の納経帳は2冊あります。いずれも和紙和綴じ、大きさはB5判ほど。1冊は『宝永八辛卯年 備後州甲奴郡 四国秩父西国板東納帳 正月吉祥日 水永村田渕 弥右衛門』、もう1冊は『宝永八辛卯年 備後甲奴郡 大乗妙典納帳 正月吉祥日 水永村田渕 弥右衛門』と表書きがあり、丹下家の祖先・弥右衛門による巡礼の記録であることがわかります。丹下家にはほかに、丹下滝野という女性が安政4年(1857)に八十八カ所をめぐった際に用いた納経帳があるようです。
弥右衛門の納経帳には巡拝時に奉納した経典、社寺名、納経を証明する署名、日付などが克明に記されています。宝永8年(正徳元年=1711)という年代と松尾教授の研究を合わせて考えると、細田周英の「四国偏礼絵図」(宝暦13年=1762)によって四国霊場八十八札所が確立される以前の巡礼の1つの実態を記録していることになります。
村の歴史を簡単に振り返ると、近世初期には福山藩領でした。元禄11年(1698)に幕府領となり、享保2年(1717)から豊前中津藩領飛び地となりました。弥右衛門が編礼の旅に出たのはちょうどそんな時代でした。
弥右衛門は宝永8年正月から享保元年(1716)8月までの足かけ6年、正味1年半、四期に分けて巡礼の旅を行っています。
| 一期 |
宝永8年(1711、4月に正徳に改元)2月3日、備後一宮・吉備津大明神に大乗妙経1部を納経したあと、正徳2年にかけて東方諸国をめ
ぐり、3月7日の尾張・熱田皇太神宮を最後に帰途につき、3月25日に安那郡下浦領分国分寺に詣で、帰宅。
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| 二期 |
同年7月28日、安芸・厳島社よりはじめて西国諸国をめぐり、帰途、山陰の三国をめぐり、10月26日に帝釈永明寺に詣で、帰宅。 |
| 三期 |
正徳5年(1715)5月25日、伊予三角寺より打ち始めて四国八十八カ所をめぐり、その帰途、7月21日に甲山今高野山に詣で、帰宅。 |
| 四期 |
正徳6年(この年6月に享保と改元)7月に因幡国分寺よりはじめて、但馬、丹後の五社寺をめぐる。(『上下町史〈民俗編〉』平成3年) |
巡礼の目的は何だったのでしょうか。
弥右衛門が廻国霊場参拝に際して印刷経文に添えて納めたと思われる納札の版木が残されています。左が版木で刷り出した納札(丹下隆三氏提供)で、そこ
には「七世父母為菩提也」とあります。いまは亡き父母の位牌を背負って四国八十八カ所をめぐるのは一般的ですが、弥右衛門は父母の菩提を弔うために、相
当の決意をもって身辺を整理し、庄屋も引退し、村人たちに別れを告げたあと、2冊の納経帳をたずさえ、廻国巡拝の旅に出たのでしょうか。
ただ、壱岐、対馬、隠岐、淡路、若狭の五国だけは巡拝することができませんでした。壱岐、対馬、隠岐は海を渡るのが困難だったのでしょうか。淡路は最初の巡礼で後回しにしたことが響いたのか、若狭は享保元年の丹後廻国の次に回る予定だったのが、ついに力が尽きたということでしょうか。
(3)主な特色
さて、納経帳の中身ですが、1冊目の『四国秩父西国板東納帳』を四国遍路にしぼってざっと眺めてみると、興味深いいくつかの点が見出されます。
まず巡拝の順路です。弥右衛門は廻国巡拝を始めてから5年目の正徳5年(1715)5月20日に伊予国宇摩郡・三角寺(六十五番)から打ち始め、同7月19日の伊予国越智郡・別宮大山積大明神(五十五番)まで71カ所を、伊予→讃岐→阿波→土佐→伊予の順に巡拝しています。
江戸時代には、(1)讃岐・丸亀に上陸して金刀比羅宮と善通寺から打ち始める「丸亀ルート」、(2)讃岐・多度津に上陸して善通寺から打ち始める「多度津ルート」、(3)阿波・鳴門に上陸して霊山寺から打ち始める「鳴門ルート」──の3コースが知られていたといわれますが、弥右衛門が歩いたコースはこのどれにも当てはまりません。
とはいえ、順打ち、逆打ちの別はともかく、部分的には現在と一致するところがかなりあります。札所の番号は「四国霊場八十八カ所一番札所 霊山寺」を唯一の例外として、まったく付されていないのも注目されます。丹下家にもう一冊ある幕末・安政4年の四国霊場めぐりの納経帳には八十八カ所の番号が明記されています。もしかすると弥右衛門の時代には番号が付されていなかったということでしょうか。
次に驚かされるのは弥右衛門の健脚です。何かにとりつかれたかのように、毎日、かなりの距離を歩いています。
明治28〜大正3年刊の百科事典『古事類苑』が「四国八十八箇所遍禮」の項に引用している江戸時代の地誌『国花萬葉記』(元禄10年[1697]版と天保6年[1835]板の両板がある)には札所間の距離数が記載されていますが、これと比較すると、弥右衛門は毎日ほとんど歩きづめだったように見えます。1日4里、5里、ときには8里も歩いています。
その間、弥右衛門は讃岐・善通寺、土佐・一宮大明神(土佐神社)、伊予・別宮大山積大明神には大乗妙典(法華経)1巻を、阿波・大龍寺には大乗妙典と普門品(ふもんぼん。観音経。つまり法華経のなかの一章)を1巻ずつ、ほかの札所には普門品1巻を奉納しています。ということは、八十八カ所めぐりと廻国霊場めぐりとが兼ねられているということでしょうか。
さらに興味深いのは、経典の受領者が「神主某」と記録されているものがあることです。弥右衛門の時代、お遍路さんの受け入れ側に関わったのが仏僧だけではないことが分かります。神仏混淆の状態にあった近世の札所の実態が浮かび上がってきます。
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3、六十八番札所、神恵院──古代の自然崇拝が底流に
(1)歴史資料に登場しない「神恵院」
弥右衛門が歩いた道順に従い、具体的にいくつかの札所を取りあげて、高野山の権威によって八十八札所が確立される以前の四国遍路の原型に迫ってみましょう。
最初は讃岐・徳島の神恵院(じんねいん)です。
正徳5年(1715)5月20日、弥右衛門は四国霊場八十八カ所の打ち始めに、伊予国(愛媛)宇摩郡の三角寺(六十五番)にお参りし、普門品(観音経)を奉納します。納経帳には「毎日午後雨降ナリ」とあります。あいにくのお天気のなか、弥右衛門の四国遍路は始まったのでした。
弥右衛門は翌日か、その翌日には確実に阿波・徳島に入ります。そして四国巡拝の四カ所目、日付が抜けているので正確には分かりませんが、前後の記述からおそらく同年5月23日、弥右衛門は神恵院にお参りしています。『四国秩父西国板東納帳』には次のように記されています。
讃州豊田郡
奉納普門品 神 恵 院
琴弾宮御宝前
弥右ヱ門殿
第一に指摘しなければならないのは、弥右衛門が参詣したのは神恵院ですが、観音経の奉納先が「琴弾宮御宝前」と記録されていることです。
そもそもの疑問は、この神恵院とは何かです。いまでこそ四国霊場の六十八番札所には「神恵院」(香川県観音寺市観音寺町、真言宗大覚寺派)が数え上げられていますが、江戸期の資料には見当たらないからです。けれども、弥右衛門納経帳には両者の名が記されています。異色といえます。
松尾教授の研究などを参考にしながら、時代順に比較してみましょう。
もっとも古い資料は、文部省の主任文化財調査官・近藤喜博博士が宮城・塩竃神社の奥州一宮文庫で発見した承応2年(1653)7月紀行の澄禅「四国偏路日記」(写本)で、これには「瑟(ママ)引八幡宮、南向、本地阿弥_如来、大宝三年癸卯……」とあり、神社の由緒や境内の様子などがくわしく書かれてありますが、神恵院への言及はありません(近藤喜博『四国遍路研究』昭和57年所収の「四国遍路日記」)。
従来は「真念によって、現代のような八十八札所が確定したのではないかと推測」(前掲、松尾「四国遍路八十八札所の成立」)されてきた、あるいは「江戸初期に四国遍路が大衆化し、その波に乗って最初に刊行された」(教育社新書原本現代訳『四国_礼霊場記』1987年所収、村上護の解説)と理解されている高野聖・真念の『四国偏路道指南(みちしるべ)』(貞享4年=1687。近藤喜博編『四国霊場記集別冊』昭和49年所収)も同様で、「六十八番琴引八幡宮」と番号が付されているのが特徴的ですが、「神恵院」についての言及はありません。
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『霊場記』所収の挿図「観音寺図」から転載
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「琴弾宮図」。『四国霊場記集』から転載 |
以前は「現在までほとんど唯一の案内の古書」(近藤喜博『四国遍路』昭和46年)といわれるほど、巡礼記でも古いとされてきた高野山の高僧・寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年=1689。近藤喜博編『四国霊場記集』昭和48年所収、前掲『四国偏礼霊場記』村上護訳1987年)は札所の番号はなく、単に「琴弾八幡宮」という項目が立てられ、本文は「この宮は文武天皇の御世の大宝三年に……」という書き出しで始まり、4ページにわたって詳細に記述しているのですが、内容としては琴弾八幡宮の説明に終始し、神恵院に関する記述はありません。挿図の「観音寺図」にも「琴弾八幡図」にも神恵院は記載されていません。
元禄10年(1697)版と天保6年(1835)板の両板がある地誌『国花萬葉記』(古板地誌叢書、昭和46年所収)では「六十八番 琴引八幡宮」という項目が立てられ、「最古の四国遍路図」(前掲、松尾「四国遍路八十八札所の成立」)といわれる18世紀後半、宝暦13年(1762)の細田周英「四国偏礼絵図」では「六十八琴引八幡」とのみ地図に示され、昭和8年の『読史備要』は単に「琴引八幡」です。
このように、いずれの史料もいまの琴弾八幡宮(観音寺市八幡町、旧県社)が札所にあげられていて、「神恵院」の名は見当たりません。
弥右衛門が正徳5年(1715)にお参りした神恵院が幻だったとは思えませんが、これら四国遍路に関する歴史資料に神恵院が登場しないのはなぜでしょうか。
(2)琴弾八幡宮の資料には登場する
じつはたいへん面白いことに、神社側、つまり琴弾八幡宮の資料には神恵院が言及されていることが分かりました。
1つは琴弾八幡宮の社務所が発行した『琴弾八幡宮昭和流記』(平成2年)の巻末に、資料として納められた「(讃岐)三代物語」(抜粋、明和5年[1768]成立)です。
「物語」は「観音寺村(明治七年十月坂本村を改称)」という一項を立て、村内の社寺案内を記しているのですが、その冒頭は「観音寺」で、注目すべきことにその書き始めに、「七宝山神恵院真言宗四国霊場六十九番札所」と神恵院を記録し、さらにこれに続く次の項目で「琴弾八幡宮。弥勒(みろく)をもって本地(ほんじ)となす。四国霊場六十八番札所」(原文はいずれも白文)と琴弾八幡宮が札所であることを明記しています。この資料では六十九番札所が観音寺ではなく、神恵院になっているところが、これまでに見た資料との際立った違いです。
もう1つの資料は、やはり『流記』の巻末資料に納められている「古今讃岐国名勝図絵 巻之十一初抜粋」(安政四年[1857]丁巳嘉平月下院 河田興 増訂昭和五年十月二十日発行 梶原猪之松)で、「琴弾八幡宮 琴弾山にあり、社僧神恵院、供僧六坊、社人秋山氏……」と記述しています。これによって、神恵院が琴弾八幡宮の社僧(別当)であることが分かります。近世の琴弾八幡宮は神仏混淆で、神恵院の支配下に置かれ、祭祀は僧侶によって行われ、巡礼者の応対も僧侶が管理していたものと想像されます。
別の角度から見てみましょう。六十八番札所・琴弾八幡宮と六十九番札所・観音寺(同市八幡町、真言宗大覚寺派)との関係です。
観音寺市という自治体名の由来である観音寺は、風光明媚な琴弾山の東の山腹に位置しています。縁起によれば、大宝3年(703)、琴弾山で修行をしていた日証が琴弾八幡宮の別当寺として建立したといわれます。当初は神宮寺宝光院と称して法相宗の道場でしたが、9世紀初頭、大同年間に唐から帰朝した空海が立ち寄り、観音菩薩像を彫るなどしたことが契機となって七宝山観音寺と改称され、真言宗の寺となったといわれ、同工異曲の物語が資料に描かれています。
琴弾山頂に社殿を構える琴弾八幡宮も、同じ大宝3年の鎮座と伝えられます。全国の八幡宮の総本宮、豊前国・宇佐八幡宮を勧請(かんじょう)したのだといい、八幡神の乗った船から琴を弾く音が聞こえてきたので、「琴弾」の社名が生まれたといわれます。空海が別当職を務めたこともあるといいます。明治維新まで三郷の総氏神の地位にあり、四国霊場の六十八番札所だったことはすでに見たとおりです。
両者の関係について、もっとも古い承応2年(1653)の澄禅「四国遍路日記」を見てみると、「観音寺」についてはごく簡単な記述しかないのに、「瑟(ママ)引八幡宮」については社伝や境内の様子などが詳細に書かれており、「麓ハ観音寺千軒ノ在家在」と観音寺のことにまで触れています。観音寺よりも琴弾八幡宮が、いやそれらを含めた琴弾山こそが古来の聖地なのでしょう。
「四国遍路日記」には「観音寺…(中略)…寺ハ神恵寺六坊在リ」と書かれてあります。『讃岐国名勝図絵』には「琴弾八幡宮……社僧神恵院、供僧六坊」とあります。近世の観音寺には六つの僧坊があり、そのうちの神恵院(=神恵寺)が琴弾八幡宮の別当となり、六十八番札所の管理もしていたのではないでしょうか。
そして明治になって、琴弾八幡宮に代わり、神恵院が独立した札所となったということでしょうか。明治の神仏判然で六十八番札所が琴弾八幡宮から移され、「神恵院」と名付けられた、という説もあるようです。
以上の推理を裏付けるように、「六十八番、神恵院」は「六十九番、観音寺」の境内のなかにあります。観音寺の境内を横切り、49段の石段を登ったところに、こぢんまりとしてあるのが神恵院です。「一寺二札所」という四国霊場で唯一の形態といわれます。神恵院の縁起などから浮かび上がる「空海ゆかり」の色彩はきわめて薄いのですが、それでも近世に確立されていた六十八カ所の古寺巡礼システムを維持するには「一寺二札所」という新例を開き、神恵院を札所とするほかはなかったのでしょう。
神恵院に参詣する巡礼者は、「笛の音も松吹く風も琴弾くも歌うも舞うも法のこえごえ」という御詠歌を唱えます。高野聖・真念の『四国遍路道指南』(1687)にも載るこの歌に、琴弾八幡宮が歌い込まれているのは誰の目にも明らかで、山上に鎮座する琴弾八幡宮こそが歴史的に認められた本来の札所であり、さらにいえば美しい琴弾山こそがそもそもの聖地であったことは疑いがありません。空海ゆかりの古刹めぐりには古代の自然崇拝が底流に流れています。
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4、七十九番札所、高照院──古代に連なる皇室物語
(1)もっとも興味深い歴史的変遷
奉納普門品 一巻 讃_阿野北面西庄村
本尊八十一面観音 摩尼珠院
俊(ママ)徳天皇社 正徳五未五月廿七日
弥右ヱ門殿
奉納テ普門品一軸 本尊千手観音宝前者也
讃州
国 分 寺
正徳五年五月廿七日
弥右衛門殿
奉納普門品 一巻
本尊千手観音 宝前
四 峯 寺
未五月廿七日 弥右ヱ門殿
上記のように、弥右衛門の納経帳によると、正徳5年(1715)5月27日に弥右衛門は「讃_阿野北面庄村 摩尼珠院 俊(ママ)徳天皇社」「讃州 国分寺」「四(ママ)峯寺」の3カ所、現在の「七十九番、高照院」(香川県坂出市西庄町。真言宗御室派)、「八十番、国分寺」(香川県国分寺町国分。真言宗御室派)、「八十一番、白峯寺」(香川県坂出市青梅町。真言宗御室派)を巡拝し、それぞれに観音経一巻を奉納しています。
一見すると、国分寺をのぞいて名前が異なり、札所それ自体の移動もあるようです。というより、四国霊場八十八カ所には長い歴史のなかでの移り変わりがありますが、霊場の史的変遷でもっとも興味がひかれるのが、この日、弥右衛門が参詣した、75代崇徳天皇(1119〜64、在位1123〜1141)との関連の深い七十九番札所です。
(2)自然崇拝と皇室敬慕と仏教信仰と
上田秋声の『雨月物語』(安永5年=1776初版)に「怨恨の権化」として描かれている75代崇徳天皇は、74代鳥羽天皇(1103〜1156、在位1107〜1123)の第一皇子ですが、じつは鳥羽天皇の祖父・白河法皇(72代天皇。1053〜1129、在位1073〜1087)の子といわれ、そこに悲劇の幕が開かれます。
法皇の強い影響力のもとで鳥羽天皇が譲位したあとを受け、わずか5歳で即位しましたが、白河法皇が崩御になると、鳥羽上皇に退位を強要され、異母弟でわずか2歳の76代近衛天皇(鳥羽天皇の第9皇子。1139〜1155、在位1142〜1155)に譲位します。
上皇となった崇徳天皇ですが、実権は鳥羽上皇がにぎっていました。近衛天皇が早世すると、皇子がいなかったことから、皇位をめぐる鳥羽上皇と崇徳上皇との間に対立が表面化し、鳥羽上皇は後白河天皇(崇徳上皇の弟、近衛天皇の兄。1127〜1192、在位1155〜1158)を即位させました。その不満から崇徳上皇は、鳥羽上皇崩御のあと、後白河天皇を譲位させ、実権を握ろうと挙兵します。これが保元の乱(1156)ですが、乱は失敗し、崇徳上皇は讃岐国に配流の身となり、この地で崩御になりました。
この崇徳天皇のゆかりの寺とされているのが、現在の七十九番札所の高照院(別名「天皇寺」、香川県坂出市西庄町、真言宗御室派)です。
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『四国_礼霊場記』に記載された「崇徳天皇図」。
前掲『四国霊場記集』所収 |
ところが、歴史資料には「高照院」がやはり登場しません。澄禅『四国遍路日記』(1653)は「崇徳天皇」、『四国遍路道指南』(1687)は「七十九_(ママ)崇徳天皇」です。『四国_礼霊場記』(1689)は本文では「金華山妙成就寺摩尼珠院」で、寺は弘法大師の開基である、崇徳天皇の御霊(みたま)を勧請した御廟もある、それで崇徳天皇と呼ばれている、などという説明がありますが、挿図には「崇徳天皇図」となっています。『国花萬葉記』(1697)は「崇徳天王」、「四国_礼絵図」(1762)は「七十九崇徳天王」、『読史備要』(1933)は「崇徳天皇社」です。
しかし弥右衛門納経帳の記載は「摩尼珠院」であり、「崇徳天皇社」に観音経を奉納したという記録になっています。
『四国遍路日記』の「道場寺」「崇徳天王」のくだりや『四国_礼霊場記』の「金華山妙成就寺摩尼珠院」の一節にも描かれていることですが、高照院の縁起は「八十場(やそば、弥蘇場)の泉」の物語から始まります。
悪魚退治にこの地を訪れた日本武尊(やまとたけるのみこと)とその配下、80人が逆に悪魚の毒気にあたり、次々に倒れてしまった。そのとき横潮明神が泉の水をもって現れる。兵士たちが水を飲むと、たちまち蘇生した。それで「八十場(弥蘇場)の泉」と呼ばれた、といわれます。ただ、『遍路日記』『霊場記』では、日本武尊ではなく、景行天皇の時代の佐留霊公(さるれいこう、佐留礼親王)と表現されています。
のちに巡錫(じゅんしゃく)の折り、泉のそばを通りかかった空海は霊気を感じ、霊木をもって十一面観音菩薩などを彫り、金山の中腹に寺を建立した。これが同院の縁起で、『四国遍路日記』ではこの「八十場の泉」にちなんで建てられたのが道場寺であると説明されています。いまの札所に道場寺の名はなく、七十八番札所は卿照寺(香川県綾部郡宇多津町、時宗)とされています。
話をもどして、保元の乱後、讃岐国に配流の身となった崇徳上皇にはしばしばこの寺に行幸になり、御年46で崩御ののち、21日間、玉体(ぎょくたい)はこの「八十場の泉」に安置された。その間、玉顔(ぎょくがん)はまるで生きておられるかのようで、泉の上には金の鳥が現れた、と伝えられます。まさに霊水です。
その後、78代二条天皇(1143〜65、在位58〜65)の宣下によって、「崇徳天皇社」が造営され、上皇の神霊が鎮祭された。同院が神宮寺となり、「金華山天皇寺」と号した。かつては3万坪の広大な境内があったが、栄枯盛衰の末、明治の神仏分離で廃寺となり、末寺の高照院が法灯を継ぎ、七十九番札所となった、と説明されています。
正徳5年(1715)の弥右衛門の巡拝当時、「摩尼珠院」と「崇徳天皇社」が一体化していた様子は、巡礼から50年後に世に出た『四国偏礼霊場記』の「崇徳天皇図」に、同じ境内の左手に「崇徳」、右奥に「摩尼珠院」が描かれていることから立証されますが、両者は現在も境内地を接しています。「崇徳天皇社」はいまの白峰宮(別名「天皇さん」、旧県社)で、同宮の鳥居をくぐると、参道正面が白峯宮の社殿で、左のすみに高照院の本堂があります。『霊場記』の木版図に「野沢(やそば)水」と記されている八十場の泉は、白峰宮の中條澄典宮司によると、いまなおこんこんと清水が湧き出ているといいます。
このように、七十九番札所という聖地の成立は空海以前に容易にさかのぼることができます。霊水をめぐる自然崇拝、日本武尊(または佐留礼親王)の物語にまで連なる皇室敬慕、空海の仏教信仰が重層的に習合していることは明らかです。弥右衛門納経帳は古代の信仰につながる神仏習合の様子を忠実に書き残しているといえます。
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5、三十七番札所、岩本寺──かつてはお宮の遥拝所
(1)「別当」と明記する史料
三十七番札所の岩本寺(高知県高岡郡四万十町茂串町。真言宗智山派)は、いまは高知県南西部、標高300メートル、山間の四万十町(平成18年春の合併前は窪川町)にあり、四万十川の水と穏和な気候に恵まれた米所の中心に位置します。
しかし弥右衛門の納経帳には、岩本寺は札所としてではなく、札所となっている神社の別当として登場します。
納経帳によると、弥右衛門は正徳5年(1715)7月2日に高知県高岡、いまの三十五番札所、青瀧寺(土佐市高岡町)にお参りします。納経帳には翌日の記載はなく、三十六番札所、青龍寺(高知市宇佐町)にお参りした記録もないままに、弥右衛門は2日後の4日に高知県高岡郡の三十七番札所、五社大明神、別当岩本寺に参詣しました。
納経帳には次のように記録されています。
奉納普門品 一巻 土州高岡郡
五社大明神 宝前
別当 岩 本 寺
正徳五乙未七月四日
弥右ヱ門殿
弥右衛門が巡拝したとき、札所は神仏混淆の状況にあったのでしょう。そして本来の札所は五社大明神なのでしょう。その実態はほかの資料からも裏付けられますが、すべての史料が岩本寺に言及しているわけではありません。
澄禅の『四国遍路日記』(1653)には、「新田ノ五社、南向、横ニ双ヒテ四社立玉フ、一社ハ少高キ所ニ、山ノ上ニ立つ……」などとくわしく説明されていますが、岩本寺には言及していません。『国花萬葉記』(1697)も「仁井田五社」と記述するだけです。
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『四国_礼霊場記』の「五社図」
前掲四国霊場記集から転載 |
しかし、『四国遍路道指南』(1687)は「三十七番五社あり。東向き、はた郡みやうち村、この在所の惣名(そうみょう、総称)は仁井田村という」と記したあとに、「六つのちり五つの社あらはして深き仁井田の神のたのしみ」と唱える御詠歌を載せ、さらに「別当岩本寺はくぼ川村にある」と続けて、岩本寺が別当であることを明記しています。『四国偏礼霊場記』(1689)も「仁井田五社 高岡郡仁井田宮内村 …(中略)…当社の別当は岩本寺という。社から十町余り離れた久保川の町にその寺がある」と記述していますが、『霊場記』の挿図「五社図」には「岩本寺」は見当たりません。
(2)明治初年に「高岡神社」と改称
「仁井田の神」すなわち仁井田五社は現存します。同じ高岡郡四万十町宮内(平成18年春の合併前は窪川町宮内)、四万十川右岸の田園に鎮座する高岡神社(旧県社)です。『霊場記』に「十町余り離れた」とありますように、岩本寺とは川をはさんで、直線にして2キロの距離があり、「五社」の名前の通り、社殿が五殿並んでいます。澄禅の時代とは社殿の配置が異なるようです。
社伝によれば、7代孝霊天皇の御子彦狭島命がこの地に封ぜられて祭祀を奉仕された。仁井田大明神と称し、一社であったが、天長年間に空海が八十八札所を創始したとき、故事に従って五社に分祀され、五社大明神と改称された。朝廷直轄の造営ともいわれる。仁井田七郷六十八村の総鎮守であったというほどに、広い信仰圏をもっていた。現社名は明治初年の改称による、と説明されています。
「岩本寺」の歴史は意外にも新しいようです。寺の縁起によれば、天平年間、45代聖武天皇(701〜756、在位724〜749)の勅願により、その信頼の厚かった高僧・行基(668〜749)が仁井田七寺を開山した。仁井田明神のかたわらに福円満寺が建立され、のちに空海が五社五寺を増建する。これが「仁井田五社」「十二福寺」だが、中世末期・天正年間に「岩本坊」が失火し、再建後、「岩本寺」と改められた。明治の神仏判然で廃寺となったあと、明治23年に再興された、といわれています。
澄禅の『日記』に「社前に大河があり、少し雨がふると荒れてしまい、五日も十日もわたれない。舟も橋もないので難所である」とあり、『霊場記』にも「(神社の)前には大河があって、仁井田川と呼ぶ」と記述されていますが、高岡神社の岩崎晴海宮司は、かつてこの「仁井田川」すなわち四万十川には渡しがあるのみで、荒天で川が荒れれば宮参りができなかった、といいます。そうした時代に遥拝所の役割を果たし、別当職がいたのが岩本寺で、明治になって仏具などが同寺に移され、三十七番札所となり、他方、「仁井田五社」はその地位を離れたのだ、と説明されています。
しかし明治の時代は岩本寺にとってけっして安穏たるものではなかったようです。近藤喜博博士は、明治の初年に廃寺となった札所は少なくないとして、神峯寺(二十七番)や高福寺(三十三番)とともに岩本寺の例をあげ、高群逸枝『娘巡礼記』を引用し、伊予・八幡浜の大黒山吉蔵寺との正統争いがあり、素封家の大黒屋吉蔵が、衰微していた岩本寺を見るに見かねて、本尊と納経の版を買い取り、たちまち岩本寺を建立した、その後、裁判沙汰もあった、と説明しています(近藤『四国遍路研究』昭和57年)。いみじくも近藤博士が「真偽はともかく」と述べているように、歴史の詳細は不明ですが、紆余曲折があったことは確かなのでしょう。
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6、五十五番、南光坊──「別宮のお大師さん」
(1)札所だった大山祇神社
弥右衛門は正徳5年(1715)7月19日に伊予国越智郡・別宮大山祇神社、南光坊に参拝し、大乗妙典(法華経)一巻を奉納しています。弥右衛門の『四国秩父西国板東納帳』には記録がありませんが、『大乗妙典納帳』には次のように記載されています。
奉納大乗妙典 一巻
三嶋別宮大山積大明神
与(ママ)州越智郡別宮村大山積
南光坊
正徳五乙未七月十九日
丹下弥右衛門 殿
南光坊はいまの四国霊場五十五番札所ですが、この札所は一見すると、歴史的変遷がもっとも大きいように見えます。年代順にざっと眺めてみましょう。
澄禅『四国遍路日記』(1653)は「三嶋ノ宮、本地大日ト在トモ、大通智勝仏ナリ」という書き出しで始まります。『四国遍路道指南』(1687)は「五十五番三島宮 平地ひがしむき、おち」ですが、その2年後の『四国偏礼霊場記』(1689)は「大山積金剛院光明寺 別宮という 越智郡 この社は三島明神である。…(中略)…宮守を金剛院南光坊といい……」と記述しています。17世紀末の『国花萬葉記』(1697)では「五十五番 三島宮」、18世紀後半の「四国偏礼絵図」(1762)は「五十五別宮」、昭和8年の『読史備要』は「三島宮」です。
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『四国_礼霊場記』の「別宮図」。近藤喜博編『四国霊場記集』昭和48年所収
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現在の五十五番札所は「南光坊」(愛媛県今治市別宮町、真言宗醍醐派)ですが、歴史資料では、三島宮もしくは三嶋宮、光明寺と札所が時代によって揺れ動いているようにも見えます。また「南光坊」が登場する史料は、『四国_礼霊場記』と弥右衛門納経帳だけです。『霊場記』の本文は「南光坊」に言及しているのに、挿図「別宮図」には「別宮」と「光明寺」が生け垣を隔てて描かれているばかりで、「南光坊」はありません。
「三島宮」といえば、一般には瀬戸内海のほぼ中央、芸予諸島の要衝に位置する大三島に古くから鎮座し、「日本総鎮守」と称せられる大山祇神社(おおやまづみじんじゃ、平成17年の町村合併までは愛媛県越智郡大三島町宮浦、いまは今治市大三島町宮浦。旧国幣大社)を指します。
大三島は古来、信仰の島であり、四国唯一の国幣大社であった大山祇神社は、古くは「三島詣」、中世には「四社詣」「五社詣」と称して、遠近より参拝者が耐えることがなかったといわれます。
澄禅『四国遍路日記』(1653)は、「別宮と称されるのは、北に七里行くと大三島という大明神の本社があるからだ。本来の遍路は島に渡る。南光坊に納札するのは略儀である」と説明しています。
地元・愛媛新聞、平成14年11月29日付に掲載された「第五十五番札所だった大山祇神社──神仏混在にぎわう『町』」と題する記事は、明治半ばまでの遍路は、この大三島が「神の島」であると同時に「仏の島」でもあることを知っていた。現宝物館の裏の山手に「神宮寺・大師堂」があった。しかし江戸期の霊場記の大半は、五十五番札所のくだりで、本来は大三島に向かうべきところを「前札所」の南光坊にお参りする、と記し、渡海遍路の減少傾向を映し出している。江戸期には芝居興行や遊女商売が許され、富くじに人が群がり、博打打ちも闊歩する危うさまで帯びた、と書いています。
大三島の大山祇神社こそ本来の札所だったのです。
(2)別当寺の一坊だった南光坊
「別宮」は大三島から南に二十キロ離れた、対岸の四国本土、今治市別宮町の別宮大山祇神社(旧県社)であり、いまの「南光坊」は同社と境内地を接する仏教寺院です。
澄禅『遍路日記』は「別宮に納札するのは略儀」と記しています。いまなら島を結ぶ橋もフェリーもありますが、江戸の昔はわたるのにけっこう骨が折れ、そのため略式で済ますことが多かったということなのか、それとも遊女や博打打ちでにぎわう喧噪を避ける巡礼者が少なくなかったということなのでしょうか。
不思議なことに、ほかの諸資料には「別宮」巡拝が「略儀」であることへの言及が見当たりません。たとえば『道指南』(1687)などは、「三島宮」を「平地、東向き。おち(越智郡)」と説明していますから、最初から大三島の大山祇神社ではなく、「略儀」であるはずの「別宮」を指しています。しかも『道指南』には「南光坊」は登場しません。
2年後に発行された『霊場記』(1689)は、先述したように、表題には「光明寺」と記述し、木版の「別宮図」には木立におおわれた「別宮」が描かれ、その左手に竹垣に囲まれた「光明寺」を載せています。弥右衛門の巡拝はその26年後ですが、『霊場記』では「宮守」として顔をのぞかせた「南光坊」が前面に躍り出ている点に、弥右衛門納経帳の特色があります。
瀬戸内・燧灘(ひうちなだ)を東に望む南光坊は、四国霊場八十八カ所のうち唯一、「坊」を名乗っています。それもそのはずで、歴史をさかのぼれば、これまた1300年前、聖武天皇の信頼あつき行基の開基とされ、もともとは大山祇神社の付属法楽寺(別当寺)の一坊として建立された。12世紀末、正治年間には伊予全土を襲った兵火で8坊が全焼し、のちにもっとも寺禄の少なかった南光坊のみが再興され、別宮大山祇神社の別当寺となった。明治の神仏判然で本尊ならびに札所が同坊に移された、と説明されています。
他方、別宮大山祇神社の社伝によれば、同社は8世紀初頭、和銅年間に大三島から勧請されたといいます。楠木の大木が見るものを圧倒する広大な社叢は、市民の憩いの場ともなっています。南光坊が「別宮さん」の別当寺であったことはお遍路さんが唱える御詠歌にも現れています。「このところ三島に夢のさめぬればべつぐうとてもおなじすいじゃく」。地元の人たちは「別宮のお大師さん」と親しんで呼ぶ、と聞きます。
近世から近代、そして現代へと時代が移り変わるにつれ、五十五番札所は大山祇神社から別宮大山祇神社、そして南光坊へと変更されたのでしょう。しかし南光坊への変更は、不思議なことに、戦前において学問的にはもっとも権威があるはずの『読史備要』には記録されていません。
さて、弥右衛門にとって、「別宮大山祇大明神」参詣は四国遍路の締めくくりでもありました。弥右衛門は地図で見れば目と鼻の先のように見える大三島を素通りして海をわたり、2日後の7月21日には故郷・水永の十数キロ手前、備後国世羅郡(平成16年の合併までは世羅郡甲山町、いまは世羅町甲山)の今高野山・龍華寺(りょうげじ、真言宗醍醐派)にお参りし、正徳5年(1715)の巡礼の旅を終えたのでした。
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7、霊場を霊場たらしめる民衆の土着的信仰
以上、見たように、現在では四国霊場のほとんどが真言宗の寺院ですが、かつては神社名で呼ばれていた札所もあります。四国遍路はいまではおしなべて「空海ゆかりの古刹めぐり」と説明されていますが、必ずしもそうではありません。
岬の突端や山上に位置する札所からは、仏教伝来以前の素朴な自然崇拝の香りが漂ってきます。多くの札所が天皇にまつわる物語をともない、皇室を敬愛する豊かな歴史を感じさせます。阿波、土佐、伊予、讃岐それぞれの一宮はすべて札所と位置づけられていたともいわれます。「空海ゆかり」はむしろ後世の付会と見られるようなケースが少なくありません。四国霊場八十八カ所は「空海ゆかり」といいながら、弘法大師空海よりはるか以前の重層的な日本人の民俗信仰を伝えています。
その一方で、それぞれの札所ごとに歴史の浮き沈みが感じられます。明治以来、2つの寺が正統性を主張し合い、平成の時代になって、つまりつい最近になってようやく争いが収まったというケースもあるようです。
八十八カ所の確立・定着には宗教的権威の側からの仕掛けがあり、宗教者の論理が濃厚に反映されていることはいうまでもありませんが、他方、霊場を霊場たらしめてきた民衆の信仰もまた軽視されるべきではありません。それは、神社だ、寺だ、と簡単に割り切れない、どの札所が正統かを追究することもない、もっと素朴で大らかな日本人の土着的信仰なのでしょう。その土俗的信仰こそが四国巡礼のブームが今日なお盛んであり続ける最大の要因なのではありませんか。
附記
本稿をまとめるにあたっては、広島県府中市・八幡神社の田中重雄宮司をはじめ、多くの方々からたいへん貴重なご助言をたまわりました。また、本文中に記述した以外に、『日本の神々─神社と聖地』(谷川健一編、1984〜87年)、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『角川日本地名大辞典』(角川書店)、『全国寺院名鑑』(全国寺院名鑑刊行会)、『全国神社名鑑』(全国神社名鑑刊行会史学センター)、各県神社誌(各県神社庁)などを参照しました。あつくお礼を申し上げます。(平成18年12月) |
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