昨今日本の論壇において、いわゆる「東アジア共同体」論が思想の左右問わずブームであるようである。そしてまた、イラク戦争などをめぐる一連の動きに際して日本側から見た日米関係に対する不安や不満とリンクしているのが今回のブームの大きな特徴のひとつであり、また戦前昭和期の「アジア主義」「東亜協同体」「大東亜共栄圏」との関連性を想起させる要因でもあろう。
「それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。」とは、最近よく駅や街頭で見かけるとある新聞社のキャッチコピーである(「それでも」はマックス・ヴェーバー『職業としての政治』に出てくるフレーズ"den
noch"にあやかったのであろうか)。確かに言葉というものがとてつもない“チカラ”をもって国すら動かすことさえある ―― 「アジア主義」「東亜協同体」「大東亜共栄圏」といった言葉は、戦前の日本において不幸にも日本を国際社会で孤立させつつ戦争へと駆り立てる“言説”として機能してしまった。この言説の背景には、日本にとって「アジア」「東洋」をどう捉えるかという大問題が待ち構えている。
ある日本を代表する財界人が月刊誌『Voice』における対談で、「この国をどのような国にしていくのか」という喫緊の課題に対する一つの答えとして「『覇道』ではなく『王道』を歩め」とし、以下のようなことを述べている。
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この東洋に根づいた「徳」という「ソフトパワー」を行使することで、日中間はいうに及ばず、混迷を深める現代の世界において、さらに堅固で揺るぎない国家間の関係を築き上げることができるはずです。
日本の近代史に、格好の事例があります。かつて、風雲急を告げるアジアに敢然と立ち、この「ソフトパワー」を提唱した先人が存在しました。それは中国革命の父、孫文です。
日本が西欧列強にならい、軍備拡張に走り、また植民地主義に邁進していた戦前、そのような拡大主義に走る日本に、貴重な警告を与えてくれた人物、それが孫文なのです。
彼は、一九二四年に神戸を訪れ、次のような講演を行っています。
「西洋の物質文明は科学の文明であり、武力の文明となってアジアを圧迫している。これは中国で古来いわれている『覇道』の文明であり、東洋にはそれより優れた『王道』の文化がある。王道の文化の本質は道徳、仁義である」
「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質も持っている。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(盾と城)となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっている」
この「王道」とは、まさに「ソフトパワー」による国家政策のことです。しかし、日本はこの孫文の貴重な忠告に耳を貸すこともなく、さらに拡大主義を続け、やがて破局を迎えることになります。第二次世界大戦によって、国土は焦土と化し、三一〇万人もの犠牲を出すという、崩壊への道をまっしぐらに歩むことになったのです。
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この人物の思想的影響力はビジネス界・論壇はじめ日本ではかなり大きいようであるが、それはさておいたとしてもこうした議論はこれも思想の左右問わず従来よく耳にする類のものである。彼自身の歴史観などはともかく、ここで考えねばならないことは二つ、
1.戦前の日本はその後果たして「孫文の貴重な忠告に耳を貸すこともなく」、“西洋の番犬”となってしまった(=東洋を見捨てた)のであろうか?
2.そもそも当時の中国、そして孫文の方こそ東洋の「優れた『王道』」の文化に沿って政治を行い、欧米から「東洋」を守る意思があったのか?
1.については、もし“西洋の番犬”となっていたとすれば、のちの支那事変(いわゆる「日中戦争」)に際して「東亜協同体」「大東亜共栄圏」といったスローガンは不要であるし、実際に欧米と提携するつもりならばかえって障害、はっきりいえば百害あって一利なしであろう。
2.については、孫文が政治・財政・軍事とあらゆる面でソ連、そして共産党と長きにわたり癒着していたことは従来から知られていることである(孫文のみならず、たとえば下斗米伸夫『アジア冷戦史』などによれば中国において蒋経国(蒋介石の息子)や張学良(支那事変勃発前の国民党ナンバー2)といった「政治面での反対者となる人物」まで共産党の影響を受けていたとされている)。そうした孫文に「東洋の王道を守れ」と言われたところで、冷静に考えれば彼は日本が欧米と提携するのを阻止しつつ、場合によっては自分たちこそが欧米と手を組んで日本を圧迫しようとしたのではないかといった邪推すら禁じえない。そして現実の第二次世界大戦までの歴史は、(日本の外交政策の失敗もあり)実際そうした方向に進んでいる。
以上のことを踏まえ、日本は「アジア」「東洋」とはどういったつきあい方を外に向けて掲げてゆけばよいのか ―― これは現在の問題としても容易に解答が出るものではない。ともあれ「東亜協同体」「大東亜共栄圏」といったものは当の日本にとって、下手をすれば欧米(当時の国際関係でも重要なのはアングロ・サクソン)を敵に回してしまい、かつ中国もそれに賛同・参画しない場合は結果として世界中の主要国を敵に回してしまいかねない危険な“チカラ”をもった言葉であったのである。
戦前から戦後にかけての日本を代表する政治(行政)学者であり論壇でも大きな影響力をもっていた蝋山(ロウヤマ)政道は、戦後に書いた論文「世界における日本」の中で、「世界と日本」という課題を取り扱う場合の視点のひとつとして「日本のアジアにおける地位を通じて世界における地位を明らかにすること」を挙げている。そして「かつての『大東亜共栄圏』のような考え方が一種の誤った独断であったことは明らかである」と述べた。蝋山自身、支那事変期にはドイツ地政学を応用した「大東亜共栄圏」構想を主唱し、またその土台となったとされる「東亜協同体」理論(事変初期)の思想的支柱でもあった。それらの言説は中国大陸における戦争の大義として、盧溝橋事件勃発時に政権を担当していた第一次近衛文麿内閣以降の戦争遂行政策において幾度となく見受けられるものである。往時の政権担当者に近かったとされる革新的知識人たちの中で少なくない人物が満鉄調査部や企画院といった国策機関、あるいは近衛政権のブレーントラストといわれた昭和研究会などに属しながらそうした“言葉”を論壇で盛んに発信している(因みに同時期のリベラルなジャーナリストでも石橋湛山などは戦争遂行の困難性を明確に説き、「大東亜共栄圏」構想は誤りであるとしていた)。
支那事変が現地解決や和平工作に失敗し長期化してゆく最中の昭和13年(西暦1938年)11月3日、近衛政権により「東亜新秩序」声明が発表される。これは同年1月16日の「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス」という政府声明により蒋介石政府との和平を頓挫させた路線を修正し、交渉の可能性を再度探るものであったといえる。
米谷匡史『思考のフロンティア アジア/日本』によれば、この声明を契機として出現した構想のうち日本帝国主義の自己批判と日中提携をかかげるものが「東亜連盟」論と「東亜協同体」論であったという。
「東亜連盟」論は、柳条湖事件を首謀し満州国建国に携わった石原莞爾により提唱されたものであるが、盧溝橋事件(12年7月7日)勃発当時参謀本部第一部長であった石原は事変不拡大を唱え参謀本部を逐われることとなる。
一方「東亜協同体」論は、その後事変が拡大してゆく中で主に昭和研究会の革新的知識人たちによって盛んに唱えられることとなり、前述の通り近衛政権のその後の戦争遂行における影響も如実に見てとれる。「東亜新秩序」声明の翌月には親日政権樹立を目的とした「近衛三原則」声明が発表されたが、これら両声明に前後して「東亜新秩序」の解釈をめぐり「東亜協同体」論に関連したさまざまな構想が論壇に登場した。その多くはこれも昭和研究会メンバーによるものであり、代表格が尾崎秀実(ホツミ)、三木清、蝋山政道らである。
中国問題を専門とするジャーナリストであった尾崎秀実は第一次近衛内閣嘱託の地位を占め、「國民政府の持つ武力は恐らく大して問題でないであらう」(『改造』12年8月号)「戰に感傷は禁物である。目前日本國民が與(アタ)へられている唯一の道は戰に勝つということだけである。」(同13年5月号)と戦争遂行を鼓舞しつつ、『中央公論』14年1月号の巻頭論文「『東亞協同體(トウアキョウドウタイ)』の理念とその成立の客觀的基礎」で「東亜新秩序」声明によって「『東亞共同體』的理念が、事變(ジヘン)に對處(タイショ)すべき日本の根本方策ともいふべきものゝ中に取り上げられてゐる」「『東亞共同體』論の發生が他の同系の理論と異なる點(テン)は、これが支那事變の具體的進行につれて支那における民族問題の意義に気づき、翻つて自國の再組織へ想ひ到つた眞劍さにあるのである。この點は東亞制覇の雄圖(ユウト)を基として描かれた他の諸々の東亞民族の大同團結(ダンケツ)的計畫(ケイカク)案とは違つた謙虚さを持つものであらう」と「東亜協同体」論を披露する。
哲学者、思想家であった三木清は「支那事變の含む世界史的意味は『東洋の形成』である」(『改造』13年6月号)とし、同年12月号巻頭「東亞思想の根據(コンキョ)」では「國内における革新と東亞協同體の建設とは不可分の関係にある」と主張した。
蝋山政道は東亜協同体論の第一人者として、『改造』13年11月号巻頭「東亞共同體の理論」では「(支那事変は)東亞に新秩序を建設せんとする道義的目的を有してゐるのである。換言すれば、東洋の恒久的平和を可能ならしめ、その保障を齎さん為である」と東亜新秩序論へと議論を発展させている。
こうした「東亜協同体」論は残念ながら日本と中国の和平や連携どころか事変の長期化、日本の孤立化をもたらしてゆくことになる。たとえば汪兆銘政権擁立のための政治文化工作に昭和研究会メンバーたちとともに参加した中西功(満鉄調査部)のように、「(中国における日本の)占領地區(チク)の民衆は一應(イチオウ)の戰敗者である。日本は勝利者である。併し、この戰敗者と勝利者とが『協同』するのだ」(『改造』14年1月号)と「東亜協同体」論をもちだして戦争貫徹を主張する者もいた。そして国内ではそこから派生する形で「長期戦も辞さず」という風潮が生まれ、統制経済などの“総力戦体制”が正当化され、それがまた現状の長期戦を肯定してゆくという悪循環が生み出されつつあった。
因みに上記の如き言説が、戦前のいわゆる“言論統制”による産物であるかといえば必ずしもそうではない。日本近現代史の泰斗とされる秦郁彦氏によれば、支那事変期はのちの日米開戦後(16年12月〜)と比較して言論規制の程度はゆるく、特に政策と世論の媒介的地位にいた新聞、雑誌などの言論機関は、その気になれば正確な情報を背景に政策的提言を試みることも不可能ではなかったという(『盧溝橋事件の研究』)。総合雑誌では特に『改造』や『中央公論』は必ずしも戦争を支持する方向で時局に対処しようとはしていなかったとの分析もある。国策に追従していたのではなく、彼らの言説がむしろ国策を突き動かしていった可能性について今後改めて検討される余地があろう(参考までに第一次近衛内閣期(12年6月4日〜14年1月4日)の『中央公論』『改造』を見てみると、ほとんどの号で昭和研究会メンバーによる記事が少なくとも2本、多い時には10本以上も掲載)。
なお、戦前日本において国際関係に関し卓越した識見を示した外交評論家の清沢洌は多くの革新的知識人による議論とは一線を画し、「東亜新秩序」について「近頃の国内における悪趣味である抽象的文字の中毒にかゝつて、外交にまでどうにも解しうる小児病的な抽象性を使用することには賛意を表しえない」とその抽象性を激しく批判している。目下の日本における「東アジア共同体」論はその批判に耐えうるであろうか
―― その範囲は? 共有する(できる)ものは? 共通する利害は?
さて国際政治学者の中西寛氏はその名著『国際政治とは何か』の中で、戦前の日本人が国際社会での英米の行動における偽善性・狡猾さ・二枚舌を見出して批判し真の平和解放の唱道者は自分であると主張しながらも、その一方で自己の国益を主張し立場を正当化するにあたってはきわめて無造作であった点を指摘している。中西氏は英米の「偽善」に対して日本の、戦前では大陸政策やその既得権益観、戦後では湾岸戦争での対応などを例に挙げながらその「独善」性に猛省を求めるのである。私なりに咀嚼(ソシャク)すれば、「偽善」と「独善」とはどっちもどっちであるが、国際社会においてはまだ「偽善」の方が多くの賛同を得やすいということであろうか。日独伊三国軍事同盟(昭和15年)においてアジア
−ヨーロッパ双方の「新秩序」建設を共に謳いあげた日本・ドイツ・イタリアは国際社会で孤立して大戦争に敗れ、他方アングロ・サクソンが往時より掲げてきた「自由」「民主主義」(およびそれらにもとづく「平和」)といったフレーズは紆余曲折を経つつも今なおその価値を失ってはいない。そうした歴史の教訓を踏まえたうえで、前述「東アジア共同体」論は国際社会の中で果たして普遍的な価値・説得力を保つことはできるのであろうか。「普遍的価値の尊重」を掲げる外務省の構想は、本当に実現可能性があるのであろうか。そして何より、いざ「東アジア共同体」論が現実の国際社会において大きな“言葉のチカラ”をもって動き始めた時、日本は責任をもってそれを舵取りし飼い馴らすことができるのでろうか・・・。
最後に前出の尾崎秀実について余談を二つほど ―― 尾崎は、昭和8年より「フランクフルター・ツァイトゥング」紙東京特派員として日本に滞在しスパイ活動を行っていたリヒャルト・ゾルゲの協力者(情報提供者)として逮捕・処刑された尾崎・ゾルゲ事件でも有名であるが、その事件について例えばイギリスなどは戦後20年以上を経ても現実問題として関心をもち続けていたことが後藤田正晴の回顧録などから分かる。“言葉のチカラ”で戦前日本の国策に重大な影響を及ぼしたかもしれない人物について、当の日本はどれだけ関心をもてているであろうか。
いまひとつ、往時の尾崎は「それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。」と標榜するまさにその新聞社の記者であった。彼がもしそのキャッチコピーを聞けば何を思ったであろう。我々も国家の政策に重大な影響を及ぼしうる“言葉のチカラ”と、自らに切実に関わる問題として今一度真摯に向き合ってみようではないか。