はじめに
2005(平成17)年8月末、筆者は軍事史学会編『軍事史学』上の「戦跡探訪」の取材として、同編集委員の淺川道夫氏らとともに「鳥羽・伏見の戦い」の戦跡を歴訪し、そして、翌年の同じく8月末には、京都市伏見区の城南宮を訪れ、戊辰戦争関連の所蔵品を閲覧する機会を得た。
戊辰戦争において新政府・旧幕府両軍が最初に衝突した地である小枝橋は、現在では京都市営地下鉄烏丸線の竹田駅下車、南東に徒歩で20分ほど歩いたところに位置する。そばには鳥羽離宮公園があり、そこには「鳥羽・伏見方面戦闘図」が設置され、当時の両軍の兵力配置を知ることができる。そこから、桂川に沿って淀城に至る「鳥羽の戦い」の戦跡は、都市化された風景の一部に当時の面影を残しつつ、あたかも記憶と忘却の相克の中に位置しているようである。轟砲が地面を震わせ、激しい戦闘が展開されたかつての鳥羽街道は、今やジョギング・サイクリングのコースとして京都市民に親しまれている。
ここでは、「鳥羽の戦い」における戦史の概要とともに、探訪の記録、城南宮の戊辰戦争関連の所蔵品について記したい。
開戦の背景
慶応3年6月22日、土佐藩は薩摩藩との間で大政奉還と雄藩会議設置を骨子とする薩土盟約を結び、同年10月、土佐藩主山内豊信が大政奉還の建白書を幕府に提出した。しかし、薩摩藩は長州藩と武力倒幕の盟約も結んでおり、二股をかけつつ情勢を伺っていた。その後、同藩は西郷隆盛や大久保利通らの挙兵論が勢力を強めつつも、混沌たる政局の中で、薩長盟約による挙兵のタイミングや効果を計りかねていた。日本国内では政情の不安から「ええじゃないか」の喧噪が満ちあふれ、主要都市間の情報の伝達を遮断するとともに、世直しを求める気運の中で従来の倫理規範は大きく揺らぎ始めていた。このようなとき、討幕派の機先を制する形で、10月14日、京都二条城二の丸御殿大広間にて将軍徳川慶喜により大政奉還が諸侯に伝えられたのである。大政奉還は直ちに朝廷に上奏され、翌日に勅許の沙汰が下りた。しかし、そもそも幕府によるこの大政奉還は、その後の雄藩会議において、圧倒的な領国を有する徳川宗家が主導権を握り続けるという意図があったことは明白であった。事実、徳川一門や譜代大名の多くは大政奉還後に朝廷から受けた召命に応じていない。
大政奉還に至る政局の中、10月6日に大久保と長州藩士品川弥次郎は岩倉具視・中御門経之と王政復古・武力倒幕を謀議した。その結果、10月13日に薩摩藩主父子へ、翌14日には長州藩主父子へ宛てた「倒幕の密勅」が出されるにいたった。こうして、王政復古の大号令が発せられ、徳川家主導の雄藩会議は事実上消滅したのである。そして、小御所会議で慶喜の辞官納地処分が決定すると、これに反発する幕臣や会津・桑名藩兵などの暴発を危惧した慶喜は大坂城に退去した。この後、朝廷の慶喜処分も越前藩や土佐藩の努力により宥和姿勢に変更したが、あくまで薩・長両藩は武力による倒幕を目指した。西郷は、江戸薩摩藩邸に集めた浪人に江戸市中で暴行を働かせ、衝突の口実を作るべく幕府を挑発したのである。そして江戸城二の丸が放火で炎上するに至り、12月25日、旧幕府兵は薩摩藩邸を焼き討ちした。これら一連の情報が大坂城に届くや城兵は憤激し、「討薩の表」を携え大軍を京都に上らせることとなった。薩摩の挑発は見事功を奏したのである。
今日、大政奉還が発表された二条城は、京都市中京区二条通堀川西入に位置し、京都市営地下鉄東西線二条城前駅下車すぐの場所にある。城は一般にも開放されており、二の丸御殿大広間なども見学できる。公式ホームページはhttp://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/ 。
また、慶喜の辞官納地を決定した小御所会議の舞台となった京都御所は、現在の京都市上京区に位置し、事前に宮内庁京都事務所に申し込みの上で、清涼殿や小御所などを参観できる。京都市営地下鉄烏丸線今出川駅下車、徒歩5分。公式ホームページはhttp://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html 。
鳥羽の戦い
慶応4年正月2日、大多喜藩主松平を全軍総督、陸軍奉行竹中を指揮役とする旧幕府軍は会津・桑名両藩兵を先鋒とし、佐久間近江守(歩兵奉行並)、久保田備前守(歩兵頭)等が歩・騎・砲兵を率いてこれに続き、姫路・高松・松山・大垣・浜田・笠間等の親藩・譜代の大小名を後詰めとしつつ、大坂を陸路、京都を目指して進発した。そして同日中には淀に到着し、翌3日、部隊は2つに分けられ、一隊は大目付滝川が率い、淀小橋を左折し桂川東堤防上の鳥羽街道を北上した。この部隊が下鳥羽赤池付近で伊地知正治率いる薩摩藩兵と遭遇することとなる。赤池から北に約150メートルの地点にある小枝橋は、古くから都に入るための関門として軍事上の要衝であった。そこはいまや薩摩藩兵によって堅く守られており、付近には長州藩兵も配置されていた。滝川は通行を求めたが薩摩藩兵はそれを拒絶し、しばらくの押し問答の末、滝川は強行突破すべく午後五時頃に麾下の部隊に対し前進命令を下した。
薩摩藩の四斤山砲が一斉に火を噴いたのはその時である。薩摩藩小銃五番隊軍監椎原小弥太が、あらかじめ示し合わせていた合図の旗を振り、天下分け目の戦いの火ぶたが切って落とされたのである。初めから武力衝突を想定していた薩摩藩は、城南宮西門から小枝橋までの間に4門の大砲を配して旧幕府軍を待ち受けていた。一方の旧幕府軍は示威のみで小枝橋を突破できると考えており、小銃に弾丸も装填しておらず戦闘陣形も取っていなかった。整然と行軍隊形のまま近づいてくる旧幕府軍は薩摩藩砲火の格好の餌食となったのである。現在、旧幕府軍が薩摩藩兵と対峙した赤池から小枝橋方面を臨むと、薩軍砲列が置かれた城南宮・小枝橋のラインはちょうど「秋の山」と呼ばれる小高い丘の陰に隠れる形になる。この死角となった場所に、大砲のほか前装施条銃を装備した6中隊相当の薩摩藩銃隊が密集隊形で布陣していたことになる。大砲・小銃の予期せぬ一斉射撃を受けた旧幕府軍は大混乱に陥り制御不能に陥るとともに、兵士は街道を逃げるか砲火の的となった。このとき、武士の面目を保ったのが滝川の護衛として奮戦した佐々木只三郎以下の見廻組隊士である。彼らは逃げまどう将兵を叱咤しつつ、甲冑に身を包み薩摩藩兵に突撃を試み体制の立て直しの時間を稼いだ。この間、旧幕府精鋭部隊が鳥羽街道から下りて東の田圃に展開したが、ぬかるみに足を取られ、見廻組隊士ともども次々に銃弾に斃れていった。
潰走する旧幕府軍は鳥羽街道を淀方面に走り、薩摩藩兵と桂川西堤防周辺に散開していた長州藩兵がこれを追撃した。旧幕府軍は途中体制を立て直し、薩・長軍を迎撃せんと、四日になって「愛宕茶屋」付近で反転し、会津藩兵約300名が酒樽を積み上げ急ごしらえの陣地を作り布陣した。しかし、鳥羽街道を南へ進軍してくる薩・長軍を迎撃するには、堤防から東に下りて兵を展開する必要がある。ここに一つの困難があった。すなわち、この地域はもともと土地が低く、桂川の堤防下には湿地帯が広がっていたのである。このような地形で大砲の移動や部隊の機動は困難を極め、激戦の末ここも薩・長軍に破られ、旧幕府軍は淀方面に後退することとなった。この日、京都では大久保利通や広澤真臣の働きかけにより、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任ぜられ、錦旗とともに出陣している。現在、かつての「愛宕茶屋」付近は、農地・宅地が造成され京都市伏見区横大路富ノ森町という地名になっており、湿地帯であった当時の面影はない。しかし、桂川堤防の「愛宕茶屋」跡には、銀杏の大木の下に「士十七名、卒十八名」という被葬者数が刻まれた「戊辰役東軍戦死者埋葬地」という小さな石碑が建てられており、わずかに往時を偲ぶことができる。
「愛宕茶屋」の前線を突破された旧幕府軍は南下して、5日、富森に布陣した。ここでも両軍は激戦を展開している。旧幕府軍は狭隘な有効に地形を利用するとともに、大垣藩兵の来援も受けて一時薩・長軍を押し戻した。しかし、実戦経験豊かな薩摩藩兵の反転攻勢は早く、また富森西方の桂川西岸には長州藩の遊撃隊や狙撃兵が散開して発砲し、ここも結局薩・長軍に突破された。ここに至り、旧幕府軍では一旦淀城に入り態勢を立て直すこととし、淀藩に入城を申し入れた。しかし、淀藩主稲葉正邦は現役の老中であったにもかかわらず、留守居役の家老達は申し入れを拒否したのである。この日、錦旗は淀の前線にまで進出しており、旧幕府軍の士気は大きく低下していた。そして、淀入城を拒否されたことで、旧幕府軍将兵は失意のうちに八幡方面に退くこととなった。
ただ、激戦となった富森の戦いではもちろん、旧幕府軍は淀小橋を経て南方へ退却するさなかも発砲を続けた。現在でも同地には、多くの銃弾・砲弾が空を飛び交った当時の記憶を留めている場所がいくつかある。そのひとつが伏見区納所北城堀にある妙教寺である。当時、同寺の南方には桑名藩砲兵隊が布陣しており、そこから北方の薩・長軍に向け多くの砲弾が放たれたが、その一つが妙教寺本堂の壁面を破り内部に飛び込んだ。現在、本堂の南側の板壁には砲弾の挿入口がガラスで保護された状態でそのまま保存されている。さらに本堂内部には飛来した砲弾が突き抜けた太さ約35センチの丸柱が「砲弾貫通の柱」として、今も本堂の屋根を支えている。また、同寺境内には、「戊辰之役東軍戦死者之碑」という慰霊碑がある。これは明治40年に「京都一七日会」によって東軍戦死者の埋骨地に建立されたもので、碑文は榎本武揚の筆による。本堂には東軍戦死者の位牌も安置されている。妙教寺の境内は自由に見学できるが、本堂の拝観には住職の許可が必要である。また、本堂内の写真撮影については、檀家の位牌等が写り込むため、出来るだけ避けてほしいとのことであり留意されたい。
淀を退去した旧幕府軍は、八幡に陣を布いたが、1月6日、旧幕府軍の一端として淀川をはさんだ山崎に布陣していた津藩が新政府側に寝返り、突如旧幕府軍に砲撃を開始したため、旧幕府軍は大混乱に陥った。旧幕府軍の戦線は完全に崩壊し、将兵は大坂に落ちのびていった。この日、嘉彰親王が淀入城を果たしている。そしてまた、慶喜が少数の供を連れ大坂城を海路、江戸へ脱出したのも同日夜のことであった。
城南宮所蔵史料紹介
2006年8月末、私たちは京都市伏見区の城南宮を訪れた。同社の創立年代は不詳ながらも、神功皇后の「三韓征伐」出陣に当たり、八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願した軍船の御旗を平安京建都に際し御神体として納め、国土守護の神、国常立尊と神功皇后の御霊をあわせ祀って都の守護神としたという由緒をもつ。承久3(1221)年、後鳥羽上皇が城南宮の祭礼の流鏑馬揃え(城南流鏑馬)と称し兵を集め承久の乱を起こし、また、幕末期には文久3(1861)年の皇女和宮の東下に際して、朝廷から方除・道中安全の祈祷を依頼されるなど、歴史的に朝廷とのつながりも強い神社である。そして、慶応4年1月3日、同社参道には薩摩藩の四斤山砲が配置され、戊辰戦争緒戦の地となった、ここはまさに「歴史の転換の地」であるといえよう。
「鳥羽・伏見の戦い」開戦の折、城南宮前に薩軍陣地が置かれた経緯から、同社には薩摩藩を中心とした戊辰戦争関連の史料が多く所蔵されている。私たちは宮司の鳥羽重弘氏の案内で、それら貴重な史料群を閲覧する機会を得た。ここではそれらの一部を紹介し、読者諸賢の参考に供したい。
○ 「鳥羽・伏見の戦い」戦況図 ※写真参照
○ 薩摩藩二番炮兵隊旗 (白地に黒の島津紋、下部に黒地に「二番炮隊」の白抜き)
○ 小旗(綿布地、赤黒赤の三段配色)
○ 小旗(絹布地、赤白二色の斜め配色)
○ 薩摩藩遊撃隊旗 (白地に青の島津紋、下部に青地に「遊撃隊」の白抜き、木竿に付く)
○ 薩摩藩鉢振 薩摩藩士阿多孫二郎遺品 ※写真参照
○ 薩摩藩合印(白布、朱印と「武運長久」の墨書)
○ 薩摩藩士阿多孫次郎書簡
○ 監軍旗(赤地に「監」の白抜き、竹竿に付く)※写真参照
○ 錦布 ※写真参照
○ 椎原小弥太(薩摩藩小銃五番隊軍監)遺影
○ 桐野利秋(薩摩藩士、中村半次郎)遺影
○ 野津道貫(薩摩藩小銃六番隊軍監)遺影
○ 中原猶介(薩摩藩一番砲隊隊長)遺影
これら城南宮の史料は、一般には公開されていないため、閲覧には事前に連絡の上、同社の許可を得る必要がある。今回、鳥羽氏には、私共の要請を快く受けていただき、これら史料の調査・撮影・計測をお許しいただいた。記して謝意を表する次第である。
なお、城南宮へは、京都市営地下鉄烏丸線竹田駅下車、徒歩15分。公式ホームページは http://www.jonangu.com/ 。