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インターネット上の表現の自由とその限界 −ある裁判例の問題提起− 
                                                 2008.05.08   
弁護士 田島 正広氏

<略歴>
平成2年早稲田大学法学部卒業。平成8年弁護士登録(東京弁護士会所属)。企業及び個人の法務全般を扱う。インターネット上の法律問題に早くから関わり、インターネット上の人権活動にも取り組んでいる。
<編集部注>
この度は現役の弁護士に寄稿いただきました。ネット社会の現今、これほど時宜を得たテーマはないと存じます。皆さま、田島論文を充分にご堪能ください。なお、田島先生のHPはhttp://www.tajima-law.jp/ 、ブログはhttp://blogs.yahoo.co.jp/tajima_law となっております。

 平成20年2月29日東京地方裁判所において、インターネット上の名誉毀損に関する新たな判断基準を伴う判決(名誉毀損被告事件(刑事)における無罪判決)が言い渡された。ここでは、その判旨を確認し、問題点を検討すると共に、インターネット上の表現の自由の限界を考えてみたい。

 【事案の概要】

 被告人Aは、フランチャイズによるラーメンチェーン加盟店募集等を行うB食品(代表取締役C)で飲食すると、その利益の4、5%がCの父Dが運営する日本平和神軍なる「カルト集団の収入になります」などと、インターネットのホームページなどに掲載して、Bの名誉を毀損したとして名誉毀損罪により起訴された。

 【判決要旨】

主文 被告人は無罪

理由(要旨)(なお,カギ括弧内は判決をそのまま引用)

 Aによる表現行為は、Bの名誉を毀損したものである。この点、その表現は、公共の利害に関して、公益目的で行われたものの、重要な部分について真実であるとのAによる証明がなく、また真実と誤審したことについて確実な資料・根拠に照らし相当な理由があったと認めることもできないので、「従来の基準によった場合には、被告人に故意がないとして無罪となることもないと考えられる」。

 しかしながら、「インターネット上の表現行為について従来の基準をそのまま適用すべきかどうかは、改めて検討を要するところである」。「インターネット上での表現行為の被害者は、名誉毀損的表現行為を知り得る状況にあれば、インターネットを利用できる環境と能力がある限り、容易に加害者に対して反論することが可能である」。「加害者からの一方的な名誉毀損的表現に対して被害者に常に反論を期待することはもちろん相当とはいえないものの、被害者が、自ら進んで加害者からの名誉毀損的表現を誘発する情報をインターネット上で先に発信したとか、加害者の名誉毀損的表現がなされた前後の経緯に照らして、加害者の当該表現に対する被害者による情報発信を期待してもおかしくないとかいうような特段の事情があるときには、被害者による反論を要求しても不当とはいえないと思われる。更に、個人利用者がインターネット上で発信した情報の信頼性は一般に低いものと受けとめられているものと思われる。上述したインターネットの特性に加え、インターネット上の発信情報に対するこのような一般的な受け取られ方にもかんがみると、加害者が主として公益を図る目的のもと、『公共の利害に関する事実』についてインターネットを使って名誉毀損的表現に及んだ場合には、加害者が確実な資料、根拠に基づいてその事実が真実と護身して発信したと認められなければ直ちに同人を名誉毀損罪に問擬するという解釈を採ることは相当ではなく、加害者が、摘示した事実が真実でないことを知りながら発信したか、あるいは、インターネットの個人利用者に対して要求される水準を満たす調査を行わず真実かどうか確かめないで発信したといえるときにはじめて同罪に問擬するのが相当と考える」。

 本件では、「被告人がインターネットの個人利用者として要求される水準を満たす調査を行った上、摘示した事実がいずれも真実であると誤信してこれを発信したものと認めることができる」ので、「結局、被告人が摘示した事実が真実でないことを知りながら発信したとはいえず、真実かどうか確かめないで発信したものともいえないことに帰するので、被告人に対して名誉毀損の罪責は問い得ないと考えられる」。

 【評釈】

 本判決には重大な疑問がある。以下,その趣旨及び根拠を敷衍する。

1 従前の解釈と本判決の判示

 表現の自由とその限界に関しては、刑法上、表現行為者側が表現行為について、公共の利害に関し公益目的で真実を表現したことの立証に成功すれば無罪とされ(真実性の証明・刑法230条の2)、他方、真実と立証できずとも、真実と誤信したことについて確実な資料・根拠に基づくことが立証できれば、故意がないとして無罪とする解釈(相当性の証明、最大判昭和44年6月25日)が採られてきた。

 しかし、本判決は、本件では真実性及び相当性の証明に成功していないことを認定した上で、@)インターネットの特性とA)個人利用者のインターネット上での発信情報への信頼度の低さを理由に、相当性の証明で要求される水準の調査水準よりも低い水準の調査をもって、犯罪の成立を阻却したものである。

 すなわち、同判決は、@)インターネットの特性上、「インターネットを利用できる環境と能力がある限り、容易に加害者に対して反論することが可能」であり、「被害者が、自ら進んで加害者からの名誉毀損的表現を誘発する情報をインターネット上で先に発信したとか、加害者の名誉毀損的表現がなされた前後の経緯に照らして、加害者の当該表現に対する被害者による情報発信を期待してもおかしくないとかいうような特段の事情があるときには、被害者による反論を要求しても不当とはいえない」とする。その上で、A)「個人利用者がインターネット上で発信した情報の信頼性は一般に低いものと受けとめられている」ことにも鑑みて、「加害者が、摘示した事実が真実でないことを知りながら発信したか、あるいは、インターネットの個人利用者に対して要求される水準を満たす調査を行わず真実かどうか確かめないで発信したといえるときにはじめて同罪に問擬するのが相当」と判示するものである。

2 誘発的言動の位置づけ

 本判決は、「被害者が、自ら進んで加害者からの名誉毀損的表現を誘発する情報をインターネット上で先に発信したとか、加害者の名誉毀損的表現がなされた前後の経緯に照らして、加害者の当該表現に対する被害者による情報発信を期待してもおかしくないとかいうような特段の事情があるとき」には、「被害者による反論を要求しても不当とはいえない」とした上で、結論的に相当性の証明よりも低い水準である「インターネットの個人利用者に対して要求される水準を満たす調査を行わず真実かどうか確かめないで発信した」かどうかをもって名誉毀損罪の成立の阻却を論じている。そこでは、加害者側の調査の不十分さは被害者側の反論により補われるべきことを念頭に置いているものと思われる。

 ここで、「被害者が、自ら進んで加害者からの名誉毀損的表現を誘発する情報をインターネット上で先に発信した」場合等、判決が例外的取扱いを認める特段の事情がある場合を、評釈の便宜上誘発的言動があった場合と呼ぶことにするが、従前の相当性の証明の枠内においても、被害者側の誘発的言動をもって、加害者に摘示事実を真実と誤審させた資料、根拠の要素として採り上げることは十分あり得るところである。被害者が自ら摘示事実を認めていた場合や、被害者から暴露された秘密が摘示事実の合理性を裏付けるような場合がこれに当たるであろう。この点、本件では、相当性の証明の不成立が前提とされているので、誘発的言動の内容が相当性の証明を基礎づけることにならない場合と捉えられているものと思われる。

 他方、誘発的言動が論争の域に達している場合には、双方の主張と反論が積み重なった結果、その中のある言動のみによって一方の社会的評価が低下することが阻止されることを根拠として、名誉毀損性が失われるとの対抗言論の法理を採用する裁判例も既にある(東京地判平成13年8月27日(民事、判事1778号90頁)、東京地判平成14年4月9日・東京地裁平成7年刑(わ)第1036号)。この理は、社会的評価の低下、すなわち名誉毀損の成否如何を採り上げるものであるから、名誉毀損の成立を前提にする相当性の証明の水準問題とは次元を異にしている。社会的評価の低下如何は、いわゆる規範的構成要件該当性の判断問題であるから、対抗言論の法理は論理構成として特段違和感のないものである。この点、本件判示から観る限り、本件の誘発的言動は、対抗言論のレベルには至っておらず、社会的評価の低下を防止するだけの内容ではなかったものと思料される。

 結局、誘発的言動がありながらも従前の枠では無罪とすることができなかった部分において、本判決は相当性の証明で要求される調査の水準よりも低い水準の調査をもって犯罪の成立を阻却するという。この点、判示では相当性の証明が不成立であることが前提にされているので、相当性の証明とは別の新たな、そしてより低い水準の証明という犯罪成立阻却事由を解釈上観念していると評すべきことになる。

3 新たな阻却事由定立への重大な疑問

(1) 解釈論の限界について

 まず、本判決が相当性の証明が成立しないと言いながら、犯罪の成立を阻却する理論的根拠は甚だ不明瞭である。すなわち、本判決は、相当性の証明に成功していないことを前提に、真実でないことへの認識がなく、その調査に怠りもないことをもって犯罪成立の阻却を論じているから、いわゆる真実性の錯誤に論及するものであることは間違いない。

 この点、真実性の錯誤の問擬については刑法学上は議論が紛糾しているところであるが、前提となる真実性の証明の法的性質については概ね、@)処罰阻却事由説、A)違法性阻却事由説などがある。@)説では、真実性を証明できない以上は処罰は阻却されないとしつつも、いわゆる正当行為(刑法35条)に該当する場合には違法性が阻却されるとの見解がある。他方、A)説では、違法性阻却事由の証明対象をもって証明可能な程度の真実性と解し、行為者が証明可能な程度の資料・根拠をもって事実を真実と信じた場合には、故意が阻却されるとの見解が伝統的に有力である。さらに、最近では、刑法230条の2をもって、事実が虚偽の場合でも錯誤が相当で過失がない場合には処罰しない趣旨、すなわち同条を過失による名誉毀損を処罰する特則として位置づける見解も有力となっている。

 これらのうち、確実な資料・根拠の証明をもって故意を阻却する見解を採れば、訴訟実務上は取材源を明らかにした立証活動を要求するところとならざるを得ず、若干硬直的な印象はぬぐえない。これに対して、正当行為説、あるいは過失犯説の立場では、確かに資料・根拠の確実性は重要な要素ではあるが、そればかりに留まることなく、行為の正当性、相当性が比較的柔軟に考察されることになるものと思料する。すなわち、具体的には、@)名誉侵害の程度、A)摘示事実の公共性の程度、B)摘示事実に関する資料・根拠の確実性(事実のもつ客観的価値の大小)、C)表現方法がそのメディアにおける通常の枠を超えている程度、D)問題となった表現活動の必要性の程度等が比較衡量されることになろう。

 本判決は、確実な資料・根拠の不存在を認定しながら、真実でないことへの認識がなく、その調査に怠りもないことを判示しているところを観ると、上記正当行為説、あるいは過失犯説とは親和性を持ちうる論理過程にありそうである。

 しかしながら、正当行為説ないし過失犯説においても、確実な資料・根拠の存在から完全に切り離された正当性、相当性が論じられている訳では決してない。それは、いずれの立場でも真実性の証明に関する明文規定(刑法230条の2)が重要な解釈指針となっているからであろうと思料される。確実な資料・根拠の存在を無視した「相当性」は、真実性の証明のレベルから甚だしく乖離した「相当性」を意味するが、それではもはや同条を解釈指針とするとは言い難く、独自の解釈論といわざるを得ないのである。

 本判決は、反論への期待をもって確実な資料・根拠の不存在が補われることを前提に、調査義務を「インターネットの個人利用者に対して要求される水準を満たす調査」の限度に軽減するが、確実な資料・根拠の不存在を前提にする時点で、既に解釈の限界を超えるもの、すなわち、立法論の域に達していると評すべきものではないだろうか。

(2) 反論の非現実性

 また、本判決が、被害者側に誘発的言動があった場合に、例外的にとはいえ、被害者側に反論を要求する点も実際上非現実的である。

 確かに、インターネットは双方発信のツールであるから、判決がいう「インターネットを利用できる環境と能力」があれば、インターネット上での名誉毀損に対する反論は可能であろう。しかしながら、インターネット利用環境と能力など、よほどのデジタル・ディバイドでもない限りおよそ容易に認められるものであり、そうであれば上記のような誘発的言動をした者は原則としてインターネット上での反論を要求されることにすらなりかねない。かかる状況では、確実な資料・根拠のレベルに至らない程度の「怪しさ」や「疑問」をもって行われる表現行為の一切が、反論の不存在を理由に表現行為として保障されることになってしまう。インターネット上の表現行為は信頼に値しないとの理由で、そのような乱暴な表現も許されるというのであれば、それはインターネット上の表現の自由の保障を拡大するというよりも、むしろインターネット上を無法地帯ならしめるものでしかないのではないか。

 実際上、インターネット上では、同じ土俵上で反論してみても、かえって興味本位の不特定多数のユーザによる匿名の集団攻撃にさらされることが間々あり、対等の立場での正当な対話が成立しづらい環境にある。この意味でも反論を期待するには無理がある場合が多い。

 よって、反論への期待をもって表現行為者の調査義務を軽減することは、被害者側に不当に困難を強いるものであると評するほかないところである。

 以上により、私は、本判決には重大な疑問がある旨を指摘することとした。

4 最後に

 インターネットは自由かつ双方的に情報発信できる場であるが、それ故にこそ自身の表現行為が及ぼす権利侵害について、十分に配慮しなければならない所以である。インターネット上の表現が信用に値しないことをもって相当性の証明の水準を下げるとなれば、その結果いよいよ信用に値しない言動がインターネットに溢れることになるが、そのような無責任な言動の場としてインターネットを位置づけるのであれば、それはツールとしてのインターネットを著しく貶めるものというほかなかろう。

 現代は通信と放送の融合の時代であり、インターネットの位置づけも立法上変容を受けつつある。そこでは、一般利用者といえども、公共の場において表現行為を行う者としての自覚と責任を求める方向性が意識されているのである。本判決のような安易な解釈論は厳に慎まれるべきであり、仮に表現の自由の位置づけを見直すのであれば、それは国民的議論に基づく立法をもって解決すべき課題というべきである。その際、匿名性の弊害が顕著で無責任言論に対する法的責任追及が困難な現状の改善を同時に図らなければ、インターネットはむしろ害悪でしかなくなってしまうリスクが懸念されるところである。インターネットをもって我々の社会生活を支えるためのツールとして位置づけることためには、いよいよ総合的かつ包括的な政策論議が不可欠な所以である。

以上



 
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