一.食糧配給制の時代になる!?
朝はパンとコーヒーで軽くすませ、昼は牛丼と味噌汁をかきこむ。夜は居酒屋で、刺身、枝豆、冷や奴。もちろん締めはラーメンで決まり! と、このような食生活の人も多いのではないだろうか。
栄養バランスの悪さやカロリーの多さもさることながら、もっと気になるのは、こうした食のアイデンティティの喪失だ。素材1つ1つの個性が失われ、画一化、工業化されていくなかで、あえてアイデンティティという言葉を使ってみた。私たちが口にしている食べ物は、本来ならついさっきまで生きていた生きものであり、アイデンティティを持っているはずであると。
お腹がいっぱいになればいい?おいしければいい?安全ならいい?それではあまりに食を軽んじていないだろうか。食は文化である。命の糧であり、自分自身を形作るものだ。食のアイデンティティは、そのまま自分自身のアイデンティティにつながるのではないだろうか。その重要な食が今、あまりに多くの問題を抱えてしまった。その1つが、自給率の低下として表れている。
パンや麺の原料となる小麦の自給率は13%しかない(注:自給率は平成18年度の農林水産省のデータを参照)。味噌や豆腐の原料となる大豆はわずか5%だ。日本は四方を海に囲まれた海産物資源の豊かな国のはずだが、魚介類の自給率も6割に満たない。とくに加工品や冷凍食品、チェーン店などでは、自給率が示す数字以上に輸入食材の割合は高くなるだろう。どこで、誰が、どのように作り、どのようにして運ばれ、加工されたのか、その背景があまりに見えない。何の気なしに口にしている食べ物の正体が分からないようでは、あまりに心もとないではないか。
世界有数のグルメ大国、日本の実体は、世界最大の食糧輸入国だ。先日、農林水産省が発表した2007年度の食糧自給率は、カロリーベースで前年度比1ポイント上昇の40%を回復したというが、食材の半分以上を外国に依存しているのは、先進国では日本だけだ。アメリカ、フランス、カナダ、オーストラリアの自給率は100%を超え、先進国のなかでは比較的低自給率のドイツやイギリスでも、60年代より飛躍的に改善し、ドイツは84%、イギリスは70%を誇る。日本は先進国中最下位であり、群を抜いて低いのだ。
かつて、といってもそう遠くない1960年には、日本でも80%を維持していた。70年では60%、80年では53%、90年では48%、2000年では40%と、わずか40年で半分に落ち込んだわけだ。
現在、100%自給しているのは、米(主食用)と麦(裸麦)のみ。さつまいもが90%を超える。もしも海外からの輸入がストップしたら、日本の食卓はどんな状況に陥るのだろうか。農林水産省発表の『農業白書』で、国内の生産物だけでどのような食卓が構成できるかをシミュレーションしている。主食はさつまいもに変わり、小麦粉を原料とするうどんは2日に1杯、大豆を使う味噌汁は2日に1杯、牛乳は6日にコップ1杯、卵は1週間に1個、肉類は9日に1食という。つまり、肉や小麦、乳製品、油脂や大豆を使用した料理は、めったにお目にかかれないことになる。米よりも多くのエネルギーを供給できる、さつまいもなどに作付け転換され、日本の食事は芋ばかりになるといわれる。むろん冒頭の1日の食事内容など、まず不可能だろう。ちょうど戦後の食料難の時代に戻ると思えばわかりやすい。輸入が閉ざされれば、厳しい食料統制のあった戦中戦後の配給制も非現実的なことではなくなるのだ。
二.輸入食材の増加がもたらした問題点
食糧自給率の低下は、単なる農業・漁業の衰退といった産業の問題だけではない。自給率低下は、まぎれもなく食の崩壊と足並みをそろえる。
1970年、万国博覧会を契機に、国内生産物の保護政策が緩和されると、それ以降、ファストフードをはじめとする外国産の食品が津波のごとく押し寄せてきた。今まで貴重品だったパンや肉類、パスタ、バターやチーズ、ヨーグルトなどの乳製品は羨望を持って受け入れられ、和食の三種の神器ともいえる、ごはん、味噌汁、漬け物は、たちまち私たちの食卓からはじき飛ばされた。輸入食材の増加とともに、伝統的な日本型の食は急速に変貌、欧米化の一途を辿ることになった。
高タンパク・高脂肪・高カロリーの欧米型の食事は、アトピーをはじめとするアレルギー症状や肥満、高血圧、さらには糖尿病、心臓病、脳卒中、ガンなどの生活習慣病の一因となっていることは、もはや周知の事実である。日本人は膵臓の働きが欧米人に比べて劣っているという。膵臓は消化を助ける器官だが、もともと脂っこいものを食べるのに適した体をしていないのだ。
食品の安全性においても、遠くから輸送することで、生産者と消費者との距離がかけ離れ、食品管理が行き届かなくなったことも大きな問題だ。
また、安価な輸入食材は、簡単便利な加工・冷凍食品の普及にも寄与した。広大な農地で大量生産された食材を、化学調味料や食品添加物を駆使して、万人がおいしいと感じる味に均一化されたものが、加工・冷凍食品だ。こうした工業化された食品に慣れると、旬の味覚も本物の味もわからなくなる。冬でもトマトやキュウリを店頭に並べておくことに、消費者は違和感を覚えない。むしろ店頭になければ、やる気のない店という烙印を押される。国内農家は1年を通して、トマトやキュウリを供給するために、冬場はハウスの中にストーブをガンガンにたいて、常夏の環境を作り出さねばならないというのに。余談になるが、今や夏でもブーツを履き、冬に素足の女性が増えたが、これも私たちの暮らしから季節感が喪失し、自然の変化や営みに鈍感になっていることを如実に表しているのではないか。
保存料を施され、遠くから時間をかけて運ばれてくる輸入食材。年間を通して供給される不自然な作物。均一に味付けされた人工的な加工食品。旬も本物の味も見失った日本の食は、なんだかとても空虚で哀れなものになってはいないだろうか。
三.環境破壊の一端を担う日本のグルメ
自給率の低い日本は、海外からの輸入にたよる比率が高いだけに、環境に与える負荷も大きい。
イギリスの消費者運動家ティム・ラングが1994年から唱えはじめたフードマイレージという考え方がある。「輸入食料の数量」と「輸入する国同士の首都から首都までの距離」とをかけたもので、単位はdkmで表される。食料が遠くから運ばれるほど、輸送による二酸化炭素排出などの環境負荷がかかり、環境汚染につながるとされる。
中田哲也氏(九州農政局消費生活課)の計算(2001年度)によれば日本の食糧輸入量は合計5850万dkm、フードマイレージは9002億dqで、世界一である。韓国は3172dq、アメリカは2958dq、イギリスは1880dq、フランスは1044dq、ドイツは1718dqだから、日本のフードマイレーズがズバ抜けて大きいことがわかる。韓国とアメリカの約3倍、フランスの9倍にものぼる。
日本は輸入量も多いが、輸送距離が極めて長い。日本が輸入している平均輸送距離は1万5400キロで、アメリカやヨーロッパ諸国の輸送距離に対して、最大5倍以上にあたる。これだけ大量の食材をはるか遠方より輸送しておきながら、その一方では、食料を大量廃棄している現状も看過できない。
さらに深刻なのは、輸出国の環境や農業に与える影響だ。農林水産省のデータによれば、日本人の食糧のために、日本の農地全体の実に約2.5倍もの外国の農地が使われているという。日本に大量の農産物を輸出するために、熱帯雨林を焼き払い、田畑にしている国がある。大量の農作物を生産するために、地下水が枯渇するほど汲み上げ、深刻な水不足に陥っている国がある。私たちは自分たちの行き過ぎた食の欲求を満たすために、限りある外国の貴重な資源や環境を、今この瞬間も食い尽くしているということを自覚しなければならない。
四.今こそ食の力を取り戻すチャンス
日本のグルメは、こうしたさまざまな犠牲の上に成り立っている。しかし、今やこの砂上の楼閣も崩れ落ちる寸前だ。原油高にともない、海外への食糧輸出を規制し、囲い込みに走る国も現れている。燃料を大量に使うハウス栽培や漁業は瀕死の状態だ。アメリカによるバイオ燃料の推進で、穀物飼料が高騰し、価格の優等生といわれる卵や乳製品も軒並み値上げ、畜産業界にも大打撃を与えている。
しかし、この状況は食の姿を転換するチャンスだと筆者は思う。昔ながらの日本の食を取り戻すのだ。ごはんに味噌汁、漬け物に納豆、焼き魚に青菜の和え物や根菜の煮物。こうした輸入品や加工品に頼らない、「本物の食」を取り戻すのだ。
輸入品や加工品が普及する以前、昭和30年頃までの日本の食は、「旬の地のもの」が基本だった。「旬のもの」なら、燃料を大量に使うハウス栽培をする必要がない。「地のもの」なら、限りある貴重な化石燃料を使い、二酸化炭素を振りまいて、はるか地球の裏側から輸送しなくてすむ。
なにより「旬の地のもの」は、私たち日本人の体質に合っている。気候風土と私たちの体とは一体のものであり、そこで穫れるものは、そこに住む人々の体質にもっともふさわしい。たとえば、湿度も気温も高い熱帯地域では、香辛料をふんだんに使う。香辛料には、雑菌の繁殖を抑える殺菌作用や食欲増進作用があるうえ、発汗を促して、体内にこもりやすい熱や余分な水分を発散する効果もある。暑い国の人々にとっては、実に利にかなった食べ方なのだ。
日本の国内に目を向けても、それぞれの地域には、気候風土に合わせて、その地方独特の素材や食べ方が今でも残っている。夏の暑さが厳しく湿気のこもりやすい盆地の京都ではハモを食べる習慣がある。ハモは利水作用に極めてすぐれ、水分代謝を促す最適な食材だからだ。
同じように、それぞれの国や地域には、その土地に合う料理が受け継がれてきた。それが郷土料理である。なにも日本食が世界一すぐれているというわけではない。四方を海に囲まれ、高温多湿で四季がある気候風土で暮らす日本人には、伝統的な日本食がもっとも合うというだけだ。年間を通して気温の低いイギリスにはイギリスに合う食事があり、熱帯のインドネシアにはインドネシアに合う食事がある。日本の寿司が欧米で人気を呼んでいるが、イギリスで寿司を食べる必要などないのだ。酢締めという料理があるように、細胞を引き締める作用のある酢や体を冷やす生の魚は、冷涼なイギリスで暮らす人々には合わないだろう。むしろ必要以上に体を冷やし、血管を収縮させて何かしら弊害が表れるにちがいない。食のグローバル化は、その国固有の郷土料理を日常の食卓から奪い、気候風土にも体質にも合わないものを無理に押し付けるだけではないだろうか。
五.農業の多様性を守ろう
日本の農業も、ここらで行く先を見直し、「昔ながらの食」を維持するための作物づくりに徹すればいい。農業人口の減少や高齢化で、現在の日本の農地だけでは、国民の食料をまかなえなくなっているのは事実だ。しかも、今の欧米化した食生活を支えようと思うと、大量の畜産物やその飼料となる穀物や小麦、油脂が必要になる。ところが、これらはもともと日本の農地には適さない。育ちにくいものを一生懸命育てても収穫量は少なく、反面、食べる量は多いのだから、とても需要に追いつかない。耕地面積が広く、合理化の進んだ海外の安価な農産物にもかなわない。結局、外国からの輸入に頼ることになるわけで、洋食を続ける限り自給率は上がらない。
農水省は今後、農業の体質強化に向けた農地改革や、経営効率化への取り組みを急ぐとされる。小さな農地を集約して大規模化し、機械化、大量生産を進めるという。しかし、アメリカ型の大量生産がどれほど多くの問題をはらんでいるか、すでに火を見るより明らかではないか。そもそも日本のような国土が狭く、起伏に富んだ地形では、大規模化、効率化は難しい。これまでのように小さな畑に多様な作物が混在する、少量多品目主義こそふさわしいのだ。それが他国に類を見ない、豊かでバラエティに富んだすばらしい食文化を生み出したのだ。
青柚子を散らした白瓜のぬか漬け。ぴりりと刺激の強い辛味大根でいただく十割蕎麦。甘長とうがらしの揚げびたし。その季節に、その地域で、わずかにしかとれない作物が、どれほど豊かで繊細な日本の食を生み出してくれることだろう。アメリカ型の大量生産では、こうしたマイナー野菜はやがて消えゆく運命にある。じゃがいも、にんじん、トマト、キュウリといったメジャー野菜だけでは、なんとも味気ないではないか。季節ごとにその土地にもたらされる自然の恵みを味わう幸せをぜひ噛みしめてほしい。
農水省は国の「食料・農業・農村基本計画」に基づいた農業の姿が2015年に実現した場合、2020キロカロリーが自給可能という。その条件が実に不可解で、「米や野菜などの作付けの一部を、よりカロリーの高い芋類などに転換する」というものだ。ばかげていると思わないだろうか。カロリーが満たされればいいという、まさに名目だけの数字合わせである。大事なのは自給率の数字でもなければ、カロリーを増やすことでもなく、日本人の体質や気候風土には米や野菜こそふさわしいということだ。その自給率を上げなければ何の意味もない。
六.コンパクト・フードを目指して
食には効率化や合理化という言葉はそぐわない。国や人種の垣根を超えるグローバリゼーションは万事に賞賛されるものではなく、こと作物を作るということ、食べるということに関しては、グローバルに反して、できるだけコンパクト・フードがいい。それを先人たちは身土不二という言葉で見事に表現してきた。体と土地とは一体のものであり、その土地に住む人々は、その土地で、その時季に穫れるものを食すのが一番である。
常夏の国で穫れるバナナを、なぜ日本の冬に食べるのか。ちょっと考えれば不可解に思うだろう。足元のすぐそこの土の中にしっかと根を張り、冬の霜を押しのけて顔を出す、大根やごぼうを食べていればいいのだ。冬場のトマトやきゅうりなど、誰も買わなければ、農家も作らなくなるだろう。ぴかぴかに光った、作り物のような輸入レモンを見て、なんだかおかしくない?と消費者一人一人が思えば、輸入量も減るだろう。この国で、その時季に作れないものなど食べる必要などないと思う。無理をして気候風土のまったく異なる外国から取り寄せて食べたところで、体は違和感を覚えるだけである。
何もすべて国産品にこだわることはない。カロリーベースの自給率を死守する必要もない。その季節に、その土地で作られる自然の恵みを取り入れた、昔ながらの日本の食をもう一度取り戻すことが重要なのだ。ごはんに味噌汁、漬け物、魚の塩焼きに青菜のおひたし、という昔ながらの日本の食なら多くを国内で自給できる。フードマイレ?ジを削減できるし、自給率アップにもつながる。農業漁業も活性化する。各人が食べ方を変えたとき、その余波は予想以上に大きい。食べ方を変えれば、地球が変わるといっても過言ではない。
民族研究家、結城登美雄氏がこんなことを言っていた。「一里四方のものを食べるということだ。足元にええもんがあるのに見直さないと、目新しいもんばっかりに走っとったら文化が残らない」。足元にある農と食に、改めて価値を見出すべきだと思う。